動物好きが動物を押しつけられるという前代未聞の事件で、金曜日の晩から連続的に不眠でした。スタッフたちは不審物を処理した程度の反応で、羨ましく感じました。
飼ってあげたら良かったのかもと悩みますが、良い里親さんが見つかることを祈ります。
こういう状況は母の終末期と似ていて、どう考えても後ろ向きの解決しかできない場合は神仏に祈るしかないですね。。。
昨日は久しぶりに二胡と古琴の共演があり、こういう状況で演奏して心が慰められました。
二胡もこの夏で14年目。もう少しで幼少からのバイオリン歴を超えそうです。最初は仕事との両立が大変で、それに慣れてきたら今度はスランプと、試練の連続でした。
今は初心者に教えたり、創作ダンスの音楽を担当したり、時々上級クラスに参加するというペースです。
謡稽古を始めてからは、バイオリンより演劇の要素が強い二胡により親近感が持てるようになりました。
私はバイオリンの癖が強く、指を独立して動かす傾向にありましたが、東洋の楽器はモンゴルの馬頭琴も同じく、気持ちだけ親指以外の四本指で押さえる(実際に押さえている指は一本ですが)、時には第二関節で押さえるぐらいの気持ちで指を動かすそうです。
そうすることでバイオリンにはない濁った、生活臭があるような音が出ます。音質的には謡の廻しなどの音に近く、二胡に親近感が湧くのは、謡の練習が進んできたからかもしれません。
時々自分の謡の録音を聞くと、二胡の音にそっくりです。特に二胡で漢詩の詠嘆を表現する箇所は驚くべきほど酷似しています。
今後残りの人生の趣味は能楽と二胡と東洋的なもので固めようと思っています。私は北京語の朗読も好きで、音声の高低差が大きい謡にすんなり入れたのは、四声がはっきりした北京語を学んでいたことが大きいと思います。似ていて非なるものなので、違う苦労もまたありますが。。。
入眠障害の不眠は辛いですが、精神的な充足感はそうした不調も軽く思わせてくれます。昨日改めてそれを実感しました。私にとって東洋の芸術は心の通貨を貯めているようなものです。
サステナビリティの観点からこれからはGDPよりも心の充足感に重きが置かれてくるような予感がします。効率よりも幸福ですね。