先日の謡のお稽古の記事の続きですが
私のお師匠の声は一瞬私より低く聞こえますが、
私はB♭でお師匠はB(ドレミファソラシドのシ)で半音高いのです。
お師匠の声が太くて、私の声が細いのでそう聞こえるのかもと思い
かつてのジャズの先生からメールが来ていたのでぶつけてみました。
私はときどきくぐもったような発音で半音が多く外国語のように聞こえるそうです。
言葉って人生だと思いました。私は幼少から外国語に触れる機会が多かったので、自然といろんな国のアクセントに染まっているのでしょう。
謡のような室町時代の音楽を勉強していて、そういうことに気がつくなんて面白いです。
やはりいろんなことに挑戦して自分の引き出しの数を多くしなければなりませんね。
結論的には耳は当てにできません。実際より低く、またその逆もあり、再現性を考えると正確である確率がどんどん減少します。
ところで先生の話はブーニンでした。
どうやら「ブーニン9年の空白を越えて」という放送の感動をシェアしたかったみたいですが、うちにはテレビがありません。
ブーニンといえばモスクワの有名な音楽一家のご出身で
バブルの時、家族や友人とともにコンサートによく行ったものです。
独特な安定感の上に超絶技巧が乗っていて、音の粒が凝縮しとても統一感のある演奏だったという記憶があります。
これがロシアピアニズムの完全性と思えば胸がキュンとしました。それに引き換え私は今の日本の金利並みにしか楽器の潜在力を引き出せていなかったです。
それからソ連時代のモスクワに足を踏み入れるまで長い月日を要しませんでした。
当時の日本経済は絶頂期。長い長い入国手続きを経て市内に出ると闇両替を迫る人に囲まれ、かなりのカルチャーショックを受けました。
外へ出るとインツーリストという係員が資本主義の国から来たということで監視しています。行列をしないと買い物すらできません。自然とドルが使えるベリョースカという外国人専用の店やバーでうろうろしていました。ここでアフリカ人たちと親しくなりアラブ方面に向かうことになるのですが
ブーニンは亡命。
その後ペレストロイカを迎えどんどん資本主義化していくモスクワ。
私も軸足をヨーロッパから香港、中国へシフトし、その後国際的なキャリアに関心がなかったブーニン氏のこともいつしか忘れかけていました。
ここに来て突然の復活のニュースはとても嬉しいです。
先生のお話によれば、ブーニンご夫婦が私たち夫婦に重なると言っていました。
比較は恐れ多すぎるのですが、体が不自由になった夫を支えて妻が頑張るところは同じですね。
でも身体が不自由だからこそ愛しいというところもあります。そして彼にふさわしい場を用意してあげたいと思う気持ちはブーニンの奥様と重なるものがあります。
先生はブーニンのシューマンが感動的と仰っていましたが、私もシューマンを練習したいし、またブーニンを心から応援したいです。
フランス語で書かれたビギナー用のロシア語の本です。ロシア語はフランス語よりドイツ語に近いです。こういうものでよく勉強したものです。語学の勉強は機会があれば自分の引き出しの数を増やすためにまたやってみたいです。
いつもお立ち寄り下さって有難うございます。